


| ・1930年(S5) | 3月青森県西津軽郡深浦町(旧大戸瀬村大字関)生まれ。 |
| ・1942年(S17) | 修道小学校卒業後、青森県立木造中学校(旧制)入学。 |
| ・1944年(S19) | 中学3年で大津陸軍少年飛行兵学校入隊(陸軍生徒)。 |
| ・1945年(S20) | 8月終戦と共に復員し、旧制中学4年に復学。翌1946年(S21)同校を4年で卒業。 |
| ・1946年(S21) | 10月から助教諭(代用教員)として、当時の西津軽郡水元小学校野木分校に勤務。独学で音楽理論の勉強を はじめる。 |
| ・1947年(S22) | 春退職して、青森師範学校本科に入学。ピアノと合唱 に熱中する。 |
| ・1950年(S25) | 3月卒業。4月から五所川原中学校教諭。 |
| ・1951年(S26) | 4月日本大学芸術学部音楽学部の2年編入学。外崎幹二、貴島清彦両氏に和声法・対位法等を本格的に学ぶ。 |
| ・1952年(S27) | 春に過労のため腰痛を患い、3年次で中退し青森に帰る。 |
| ・1953年(S28) | 1月青森市立浪打中学校教諭。 |
| ・1954年(S29) | 10月、NHK・毎日音楽コンクール(現日本音楽コンクール)作曲部門室内楽の部第一位入賞「弦楽四重奏 曲第一番」。 |
| ・1955年(S30) | 3月浪打中学校退職。4月日本大学芸術学部4年復学。東京・足立三中/志村一中非常勤講師。 |
| ・1956年(S31) | 3月日本大学芸術学部音楽学科卒業(総長賞受賞)。5月作曲グループ「葦の会」第一回作品発表会を山葉 ホール(銀座)で開催。以来1972年(S47)ま で10回開催する。9月 肺結核発病。群馬県榛名荘病院入院、翌1957年(S32)肺切除(左上葉1+2と3)。同年9月退院。 |
| ・1958年(S33) | 東京・私立和光学園教諭。以後、1974年(S49)まで16年間同校勤務。この間の作曲活動は「葦の 会」、日本現代音楽協会、日本作曲家協議会その他の場で作品を発表する。また、民間教育研究運動に積極的に参加し、1967年(S42)4月にはコダー イ・システム研究のため、ブダペストとモスクワへ初渡欧。「わらべうたによる音楽教育」の研究を深め、創作活動との関わりをつよめる。 |
| ・1964年(S39) | 青森放送委嘱作品「津軽方言詩と室内楽のための六章」の放送番組が、全国民放大会番組コンクール・ラジオ 部門で第三位銅賞受賞。 |
| ・1971年(S46) | 和光大学非常勤講師兼任。 |
| ・1974年(S49) | 4月、宮城教育大学助教授(作曲)として仙台に移る。 |
| ・1979年(S54) | 同教授。 |
| ・1994年(H6) | 同退官。名誉教授。 |
| ・2008年(H20) | 6月21日、逝去。 |